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年間第22主日ミサ・説教「神の掟と人間の言い伝え」 

福音朗読は、先週まで数週間にわたってヨハネ福音書6章が読まれてきましたが、今週から再びマルコ福音書に戻ります。 

今日の箇所(マルコ7章)は、新共同訳聖書では「昔の人の言い伝え」という小見出しが付けられています。この「昔の人の言い伝え」とは、旧約聖書そのものに載っている「神の掟」、すなわち律法ではなく、今日のキリストのお言葉にある「人間の言い伝え」のことです。 

今日の福音で、食前に手を洗う等々と列挙されている規則は、旧約聖書の律法そのものではなく、その律法を厳格に守ろうとしていたファリサイ派の人々が、その律法を日々の生活に当てはめた解釈の結果できたものです。そうした解釈の数々はその当時、口伝えで語り継がれ、とても大切にされていましたが、場合によっては、律法の根本的な精神を忘れてしまう本末転倒がしばしば起こっていました。今日の第一朗読の申命記(4章)に「私が命じる言葉に何一つ加えてはならない」とあるのに、律法の解釈の結果生まれた「人の言い伝え」を律法と同一視してしまい、神の掟を無視するような結果が生じていることを、キリストは厳しく戒めているのです。 

私たちも注意しないと、いつの間にか、言い伝えとして残っている形式を守ることに終始してしまい、その原点となる根本精神を忘れてしまう危険があるのではないでしょうか。コロナ禍の中でミサが中止になっている今こそ、ミサに集まることの原点を再確認するべきかもしれません。 

さて、キリストは今日の福音で、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」とおっしゃって、旧約聖書の律法そのものの限界も、さらっと指摘しています。「外から人の体に入るもの」とは「食べ物」のことですから、汚れた食べ物はないという宣言でもあるのです。旧約聖書(レビ記11章など)には、食べてよいものといけないものに関する種々の規定が厳然とありましたが、キリスト教は、キリストのお言葉に基づいて、後に旧約聖書にある食べ物に関する一切の規定を破棄しました。 

その結果として、キリスト教には食べ物に関するタブーがありません。旧約聖書に基づいた生活を送っているユダヤ教が、最も多くの食べ物に関する禁止規定を今も守っているのと比べれば大違いです。実に、宗教上の理由で食べてはいけないものがないのです。 

でも、キリスト教は決して楽な宗教ではありません。キリストは今日の福音でも、「人を汚すのは食べ物ではなく、人間の心の中から出てくるものだ」と言われ、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」と、列挙しています。そこには、不道徳な行為を戒めるだけでなく、心のあり方の根本を問いなさいという呼びかけが確かにあるのです。 

ファリサイ派の人たちはユダヤ教徒の中でも真面目な人たちでしたが、キリストは彼らをたびたび非難しています。人間というものは、ただでさえ自分のことを棚に上げて他人のことをとやかく言ってしまうものですが、特にファリサイ派のように、自分のことを真面目で熱心だと思えば思うほど、その自分を基準にして、他人を裁いてしまう危険があるからです。そのような態度がキリストの心からかけ離れていることに思いをいたし、自らの心の中と日々の行いとを正直に振り返りたいと思います。 

☆山本量太郎 

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