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聖木曜日主の晩餐の夕べのミサ説教「過越の三日間の始まり」 

教会の典礼暦の頂点である「聖なる過越(すぎこし)の三日間」は、この「聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ」から始まります。主イエス・キリストの成し遂げられた過越の神秘、すなわち、死から命へとお移りになったこと、私たちの死を打ち砕き、私たちに命をお与えになったことを、教会は実に三日間かけて、盛大に記念するのです。主イエスは、人類の救いの業が成し遂げられる時が間近に来たことを知り、最後の晩餐の時、「私の記念として行いなさい」と仰せになって、ご自分の死と復活の記念の仕方を前もって弟子たちに残してくださいました。それが私たちのささげているミサの起こりにほかなりません。 

さて、そのミサの中心部分の祈り(奉献文)は毎回ほとんど同じです。その大部分は司祭が代表して一人で唱えますが、その中に「記念唱」という司祭と会衆との間のやり取りの部分があります。司祭の「信仰の神秘」に答えて、「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と唱和するところです。今日は、ミサの中心部分で必ず繰り返される、主の死と復活を記念する、この大切なやり取りの意味を少し考えてみたいと思います。 

まず、ミサのその時、どのような「信仰の神秘」が実現しているのでしょうか。神は、司祭が代表して唱える「聖霊によってとうといものにしてください」と始まる教会の祈りを聞き入れて、その時、祭壇の上に供えられたパンとぶどう酒を、私たちのために主イエス・キリストの御からだと御血にしてくださいます。そのような、信仰の神秘としか言いようのない神秘が実現します。その時、皆さんが司祭と共に囲んでいる祭壇の上には、パンとぶどう酒の外観(しるし)は全くそのままでありながら、聖霊の働きによって聖化され、私たちのために与えられるキリストそのものとなった御からだと、キリストのいのちのみなぎる御血とがあるのです。 

その信仰の神秘が今日も実現していることを思い、祭壇の上に御からだと御血としておられる主キリストに意識を集中して、「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と私たちは唱和します。私たちがこうしてキリストと生きた交わりを持つことができる恵みは、キリストの死と復活を通して与えられたのであり、ミサはそのキリストの死と復活の記念祭儀なのですから、キリストの死を思い、復活をたたえるのは当然のことですが、それにしても、この日本語の翻訳はその深い意味を十分に表現しきれていないのではないかと次第に思うようになりました。主の死と復活をたたえようではありませんかと互いに呼びかけあっているような言葉としてしか聞こえないからです。 

元のラテン語を直訳風に訳してみますと、「主よ、私たちはあなたの死を告げ知らせます、あなたの復活をたたえます、あなたが再び来られるまで」となります。ここでの「主」は明らかに「主イエス・キリスト」を指しますから、「主キリストよ、私たちはあなたの死を思い、あなたの復活をたたえます、あなたが来られるまで」と、思いを込めていることになります。私たちはその時、祭壇の上にパンとぶどう酒のしるしのもとに御からだと御血としておられる主キリストに向かって、そう呼びかけています。奉献文は基本的に父なる神に向かう祈りですが、この記念唱の部分だけは、主キリストに向かう祈り、聖体のうちにまします主キリストに向かう祈りとなっているのです。 

死から命にお移りになられたキリストが、今も私たちとともにおられ、今日も私たちに命の糧としてご自身を与えてくださる、その信仰の神秘を私たちがいっそう深く味わうことができますように。この聖なる三日間の典礼を、心を込めてささげてまいりましょう。 

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