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四旬節第2主日ミサ説教「十字架の向こうに光がある」 

私が成城に来る前にいた関口の聖マリア大聖堂の正面には、高さが実に16メートルもある大きな十字架がありました。そして、その後ろからは、薄い大理石を通して柔らかな光が差し込んできていました。 

その大聖堂は東向きに建てられています。実はカトリック教会には、地形的な制約がなければ、聖堂、特にカテドラルは東側に祭壇を置く形で建てられる、という伝統があります。成城教会の祭壇は、地形的な制約からでしょうか、南側に置かれています…。古代から東は真の太陽であるキリストの方角と考えられ、東方を向いて祈るという習慣が千数百年前には既に根付いていたのです。 

それで、カテドラルの大十字架は朝、特に夜明けころが一番美しく、わたしは何回も見とれたことでした。そして、いつしか思うようになりました。光は十字架の向こうから来る。それはキリストの光だ。希望の光にちがいない。その確信こそが、決して楽ではない私の日々を支え続けてくれていました。 
成城に来て4年目に入っている今も、私は自らにそう言い聞かせ、皆さんにも呼びかけたいと思っています。十字架を見つめよう。十字架から目を背けてはならない。十字架の向こうにこそ希望の光がある、復活の喜びがある、と今日も申し上げたいのです。 

2千年前、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と、弟子たちに言われたキリストは、今日の私たちにも、呼びかけています(マタイ16・24)。その呼びかけにこたえて私たちが歩み始めるとき、自分にとっての十字架が何であるかが少しずつ見えてきます。だれでも、自分の一回限りの人生を誠実に生き抜こうとすれば、必ず背負わなければならない十字架があるからです。しかし、その十字架の向こうに必ず光も見えてきます。キリストとともに歩む道は、必ず喜びにたどり着ける道ですから。 

そもそも、キリストの十字架とは何でしょうか。真の神であるお方が真の人となって生き抜かれたこと、そのこと自体がキリストにとってまさに十字架であったとしか、私には思えません。 

キリストは地上の道のりの間、一度たりとて、神の子としての特別な力を自分のためにお使いになりませんでした。荒れ野で悪魔の誘惑にあわれたとき、自らの空腹をいやすためには石ころ一つもパンに変えることをなさらず(マタイ4・4)、最後には、神の子なら十字架から降りてこいと言われても神の子としての力を発揮なさいませんでした(マタイ27・42)。「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20・28)というお言葉どおりに自ら生き抜かれました。神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛されたのです(ヨハネ3・16)。そして、その独り子は、私たちに救いをもたらすため、自らをおささげになりました。こうして、神の究極の愛があらわされたのです。 

人はだれも、自分で自分を救うことはできません。しかも、キリストがはっきりとそれを示してくださったのに、私たちは、十字架さえなければ復活の喜びが得られると言わんばかりに、むなしくもがいています。自分の十字架を避けようとするだけでなく、自分の十字架を他の人に背負わせてしまっているかもしれません。 

十字架の道をキリストと共に歩み始めた弟子たちには、その途上、ほんの束の間ではあったけれど、キリストの光り輝く姿を垣間見る恵みが与えられました。そしてそれは、彼らがキリストに最後までついていく力となったのではないでしょうか。 

ですから今日も、繰り返したいと思います。おのれの十字架と向き合い、見つめよう。そうすれば、十字架の向こうから光は必ず来る、と。 

 

☆山本量太郎 

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