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年間第25主日ミサ説教「人の子イエス」 

今年おもに読み進んでいるマルコの福音書は、イエス・キリストが神の子であることを伝えるために書かれました。その書き出しの1章1節に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあるとおりです。そして、異教徒であったに違いないローマ帝国の軍人が、十字架上で息絶えたイエス・キリストを仰ぎ見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った言葉を福音書全体の結論として位置づけています(マルコ15・39)。 

でも、「神の子」という言葉は、この2箇所しか、マルコの福音書には出てきません。キリストはご自分のことを神の子であるとは一度もおっしゃっていないのです。それでは、キリストはご自分のことを何と言われたでしょうか。本日の福音にもあるとおり、ご自分は「人の子」であると、繰り返し言われたのです。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される…」(マルコ9・31)。手元にある国語辞典で「人の子」を引くと、何番目かに「新約聖書の福音書で、イエス‐キリストが自らを指すのに用いた表現」と出てきますから、最初は人の子を「私」と置き換えて読んでもいいでしょう。しかし、この「人の子」には、言うまでもなく、もっと深い意味が込められています。 

マルコの福音書は、真の神の子であるキリストが真の人として生き抜かれたことを強調しています。キリストは、真の人として十字架への道を歩みとおし、十字架の上で我が身をささげる生涯を生き抜くことによってのみ、自らが神の子であることを証しすることができたのです。人々はキリストの行った奇跡に心を奪われて、キリストを救い主としてほめたたえますが、キリストは「人の子は人々の手に渡される…」と言って十字架の道を歩み続けます。マルコの福音書は、数々の奇跡を行うキリストではなく、自らを人の子であると繰り返し、十字架上で死を遂げるキリストこそが真の神の子であるということを際立たせているのです。 

実は、この人の子という言葉には、旧約聖書の背景が間違いなくあります。ダニエルの預言書(7章)に、「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、その主権は過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」とあるとおりです。この箇所で分かるように、「人の子」は来るべきメシア(救い主)の称号にほかならないわけで、マルコの福音書は、この旧約聖書の人の子の預言をイエス・キリストに当てはめているのです。 

「人の子は人々の手に引き渡され、殺される…」というキリストのお言葉は、ふつう「受難の予告」と言われますが、お言葉の最後が「…三日の後に復活する」と結ばれていますから、ほんとうは「受難と復活の予告」です。人の子であるキリストは、十字架の上で生涯を全うして、人間としての苦しみを味わいつくされました。だからこそ、私たちは、キリストが苦しむすべての人の救い主として再び来られ、すべてのものがキリストのうちに一つになる時を信じ、待ち望むことができるのです。キリストが人の子として私たち人類の一員になってくださったのですから、私たち一人一人の苦しみが決して無駄に終わることはないと信じて、歩んでいくことができますように。いつ終わるか分からないコロナ禍に身を置く苦しみのうちにも、希望を持ち続けることができますように。 

☆山本量太郎 

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