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光は十字架の向こうから

2021年9月12日(日) 年間第24主日 
「光は十字架の向こうから」 
説教・山本量太郎神父(カトリック成城教会) 
第一朗読 イザヤ50・5-9a 
第二朗読  ヤコブ2・14-18 
福音朗読  マルコ8・27-35 
 
私が成城教会に来る前にいた関口の聖マリア大聖堂の正面には、高さが実に16メートルもある大きな十字架がありました。そして、その後ろからは、薄い大理石を通して柔らかな光が差し込んできていました。 

その大聖堂は東向きに建てられています。実はカトリック教会には、地形的な制約がなければ、聖堂、特にカテドラルは東に祭壇を置く形で建てられる、という伝統があります(成城教会の聖堂は、敷地の関係で南向きに建てられていますが…)。古代から東は真の太陽であるキリストの方角と考えられ、東を向いて祈るという習慣が千数百年前には既に根付いていたのです。 

それで、カテドラル大聖堂の大十字架は朝、特に、少しずつ朝陽が射してきて徐々に明るくなっていく夜明け頃が一番美しく、私は次第に輪郭がはっきりとしてくる大十字架を何回も見とれたことでした。そして、いつしか思うようになりました。光は十字架の向こうから来る、それはキリストの復活の光だ、希望の光にちがいない、その確信こそが、決して楽ではなかった当時の私を支え続けてくれたのです。 

成城教会に来て既に5年経っていますが、私は今も自らにそう言い聞かせていますし、皆さんにも呼びかけたいと思っています。十字架を見つめよう。十字架から目を背けてはならない。十字架の向こうにこそ希望の光がある、復活の喜びがある、と今日も申し上げたいのです。ちなみに、私は現在、成城教会の聖堂の祭壇左側(すなわち東側)のステンドグラスから射してくる朝陽にも素晴らしさを感じています。朝ミサで出られた方なら、同感していただけると思います。 

さて、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と2千年前、弟子たちに言われたキリストは、今日の私たちにも同じように呼びかけています。その呼びかけにこたえて歩み始めるとき、この自分にとっての十字架が何であるかが少しずつ見えてきます。だれでも、自分の一回限りの人生を誠実に生き抜こうとすれば、必ず背負わなければならないこと、十字架があるのです。しかし、その十字架の向こうには必ず光も見えてきます。キリストが共に十字架を担って歩んでくださり、十字架の向こうにある復活の喜びにまで導いてくださるにちがいないからです。 

キリストの十字架とは何でしょうか。真の神であるお方が真の人となって生き抜かれたこと、そのこと自体がキリストにとってまさに十字架であったのです。キリストは地上の生涯を通して、一度たりとて、神の子としての特別な力を自分のためにお使いになりませんでした。荒れ野で悪魔の誘惑に直面したとき、自らの空腹をいやすためには石ころ一つもパンに変えることをせず、最後には、神の子なら十字架から降りてこいと言われても、神の子としての力を発揮なさいませんでした。「仕えられるためではなく、仕えるために来た」というお言葉通りに自ら生き抜かれたのです。 

だれも自分で自分を救うことはできません。しかもキリストがはっきりとそれをお示しになったのに、私たちはむなしくもがいています。十字架がなくなれば復活の喜びが得られるといわんばかりに、自分の十字架を避けるだけでなく、自分の十字架を他の人にまで押しつけてしまっているようなことはないでしょうか。 

十字架と向き合い、見つめよう。そうすれば、十字架の向こうから光は必ず来る。コロナ禍が長引き、先が見えない気分に押しつぶされそうになっている今だからこそ、今日もそう繰り返して結びたいと思います。 

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