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三位一体の主日ミサ・説教「三位一体の神秘」 

三位一体の教理を体系的に記した有名な古代(4世紀)の神学者アウグスティヌスが体験したこととして、このような有名な話が残されています。 

「ある日、アウグスティヌスが海辺を散歩しながら、三位一体の教理について思い巡らしていると、一人の子どもが砂浜を掘って穴を作り、海の水を汲んできては繰り返しその穴の中に入れている光景が目に留まりました。なぜそんなことをしているのかと尋ねると、その子は、海の水を全部この穴の中に入れようとしているのだと答えます。そんなことは無理に決まっていると言ったアウグスティヌスに向かって、その少年は、三位一体の神秘を人間の頭で理解しようとすることも同じことだと答えました。そして気がついた時には、その子どもの姿は消えていました。その少年は天使だったのです。」 

私はこの話を、小学校5年生か6年生の時に、立川教会の土曜学校で塚本金明神父さまから聞きました。それは、アウグスティヌスという聖人の名前を生まれて初めて聞いた時でもありました。そして、私はこの話を実話と信じて大人になりましたが、神学校に入ってしばらくすると、この話は後世、それも千年以上経ってから作られたもので、アウグスティヌス自身が語ったものではないということが分かり、少なからずがっかりしたことをよく覚えています。 

しかしながら、この話は、三位一体が神の存在に関するもっとも偉大な神秘であり、人間の頭脳では理解し尽くすことができないという、キリスト教の信仰の根本をよく教えてくれているのです。私は子供の頃にこの話を聞いておいて、ほんとうに良かったと感謝しています。それは、三位一体の神を自分たちの頭の中に入れることはできない、逆に、私たちが三位一体の神の世界の中にいるのだということが、私の心の奥底で、しっかりと土台になった日でもあったのだと思っているからです。 

聖書に三位一体という言葉は出てきません。使徒たちは三位一体という言葉を知りませんでした。彼らは自分たちが見たこと、聞いたこと、経験したことを「福音」として語ったのです。父なる神のこと、イエス・キリストのこと、聖霊のこと…。そして、その「福音」は最初からすんなり受け入れられるようなものではありませんでした。ユダヤ人にとってはつまずきであり、ギリシア人にとっては愚かなものだったのです。しかし、彼らはユダヤ人やギリシア人に受け入れやすいように福音を変えたりすることは、決してありませんでした。ですから、三位一体の教理は決して分かりやすいものではありません。事実、間違いであるとして退けられた数々の理屈のほうが、もっともらしく思えたりします。でも教会は、そのもっともらしく思える不適切な説明を退けなければならなかったため、使徒たちから伝えられた「福音」を、人間に与えられた言語という限界の中で、三位一体の教理として確定していったのです。 

今日は三位一体の主日です。復活、昇天、聖霊降臨と偉大な神秘を祝う50日間の復活節は先週の日曜日、聖霊降臨の主日で終わって、教会の暦は既に「年間」に入っていますから、今日は「年間第10主日」になるはずですが、あたかもまだ復活節が続いているかのように、盛大に三位一体の主日を祝います。50日間の復活節を一日で振り返る、復活節のいわば総集編であるかのような日曜日となっているのです。 

父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受け、三位一体の神の世界に招き入れられていることに思いを新たにするとともに、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受ける日を待っておられる洗礼志願者の方々のために、洗礼の豊かな恵みを祈りたいと思います。 

☆山本量太郎 

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