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復活節第2主日ミサ説教「共にいる時、共にいてくださる」 

成城教会の聖堂に共に集まることができず、ご自宅で祈りをささげ、この説教を読んでくださっているお一人お一人を思い浮かべながら、記しています。 

復活の主キリストはまずマグダラのマリアにお現れになった、とマタイ、マルコ、ヨハネの三つの福音書がそろって伝えています。でも実は、復活の主がこのように一対一の形でお現れになったのは、例外的なケースなのです。ほとんどの場合、復活のキリストは、弟子たちが集まって共にいるとき、ご自身をお現しになっています。ヨハネの福音書に従いますと、キリストは復活されたその晩、弟子たちにお現れになりますが、その時の弟子たちは10人でした。その8日後の2度目は、前回いなかったトマスも同席していたので11人だった、というのが今日の福音になるわけです。そして来週の日曜日に読まれるのは、ルカ福音書の有名な場面ですが、夕暮れのエマオへの道で無名の2人の弟子が共に歩いていたとき、復活の主はまた共にいてくださり、食事を共にされたのです。 

「主キリストは共にいる時、共にいてくださる。」それは、聖書の時代のことだけではありません。今も私たちの中で実現しています。マタイの福音書はそのことを、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18・20)というキリストご自身のお言葉をもってはっきりと伝えてくれています。私たちはミサのたびごとに、「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」と呼びかけ合ってそのことを確認しているのです。キリスト教は集まることをとても大切にしています。カトリック教会は日曜日ごとにミサに集まります。そもそも、教会という言葉の元の意味は「集会」に限りなく近いのです。信者が集まってミサをささげるとき、そこに教会が何よりはっきりと目に見える姿で現れるのです。 

私はかつて神学生だったとき、幾つかの教会で実習させていただきましたが、その中でも多摩教会のことを今でもよく思い出します。多摩教会は、現在は聖堂も信徒会館もある普通の教会になっていますが、私がお手伝いした40数年前は、賃貸マンションの確か2DKですべてが営まれていました。前の晩から泊めていただき、日曜日の朝早く起きて朝ご飯を済ますと、居間と寝室のふすまをはずして聖堂に模様替えし、お風呂場には新聞紙を敷きつめて、靴置き場にしていました。30人ほどは集まっていたと記憶していますが、とにかく聖歌はできるだけ小さな声で歌いました。日曜はゆっくり寝ていたいかもしれない隣家への気遣いなのですが、まるで古代ローマの迫害時代のカタコンブ(地下墓地)のミサみたいだなと思ったものでした。 

当時の主任司祭、寺西神父さまは、「多摩教会を見せてくださいと言われたら、日曜日のミサにいらしてください」と答えているのだよ、とおっしゃっていました。この当時の多摩教会との出会いによって、私の教会観は少なからず変わったと思います。いや、教会とは集まりであるという、神学校で習った理屈を無理なく受け入れることができたと言ったほうがいいのかもしれません。いうまでもなく聖堂はもちろんとても大切なものですが、そもそもというところから考えれば、集まるために必要だから聖堂はあるのです。 

私たちは、それが当たり前になるほどに、ミサに集まることを大切にしてきました。それが今年、突然、集まれなくなってしまいました。しかも、復活祭のミサもできなかったのです。今、私たちは集まれることのありがたさをしみじみと感じています。そして、再び集まってミサをささげられる日を待ち望んでいます。と同時に、集まらなくてもつながっている、教会の目に見えないつながりをいっそう意識できるようになったことを感謝したいと思います。 

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