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四旬節第4主日ミサ説教「生まれつき目の見えない人」 

「生まれつき目の見えない人を癒す」という今日の福音(ヨハネ9章)は、洗礼志願者のために選ばれた、四旬節の大切な朗読箇所の一つですから、説教の時、この箇所についての私の思いをどこまで語っていいのかどうか、迷うところもありますし、うまく言えないかもしれません。 

私には甥や姪が12人います。その12番目の甥は、重い障害をもって生まれました。それまで、健康な甥や姪が次々と生まれるのが当たり前だと思っていた私は、母親になって間もない妹に何も言えなかったことをよく覚えています。母親も甥も一生懸命頑張りましたが、歩けるようには、なりませんでした。 

その甥が歩けないと分かった時から、「生まれつき目の見えない人」の話は、私にとってひと事ではなくなりました。生まれつき目の見えない人を見えるようにしてくださったキリストに、私の甥も歩けるようにしてくださいと、たびたび祈りました。医学的にみて、それは無理だと分かってからも、奇跡を願いました。でも、かないませんでした。 

「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」という今日の箇所を読むたびに、私は、「この子が生まれつき歩けないのは、誰の責任ですか」と読み替えるようになっていました。「だれが罪を犯したからですか」と尋ねた弟子たちと同じように、私は、「だれの責任ですか」と、不幸の原因を追求していたようです。 

その思いから解放されるのに、20年以上かかりました。妹はある日、思い切って我が子に、「歩きたい?」と尋ねたそうです。そうしたら、「歩かなくていい。今のままがいい」という答えが返ってきたというのです。彼にとって、歩けるようになるための訓練は苦しみ以外の何ものでもありませんでした。歩けないということを、甥は不幸だとは思っていなかったのです。あるがままの甥を初めて実感したような気がしました。 

人は誰しも一つや二つ、あるいはもっとたくさん、不幸だと感じることがあるに違いありません。そして、その不幸の原因を追求しがちです。いや、そうせずにはいられないのかもしれませんが、不幸の原因を追求したところで、結局は、自分を責めるか、他人を責めるかになってしまい、決して幸福にはなれません。私自身、「私はどうして不幸なのか」という詩編の言葉が毎日浮かんでくるような日々を過ごしていた時期もありますが、甥は自分が歩けないことを不幸だとは思っていなかったということを知ってからは、この自分にとって不幸だと思えてしまうことの原因は考えまい、それも含めてあるがままの自分をそのまま受け入れようと、努めるようになりました。そうしたら、いつの間にか、「『私はどうして不幸なのか』とつぶやくときも、私は神を信頼している」という詩編116(「教会の祈り」の訳)の言葉をすっと唱えられるようになっていました。 

「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」という質問に対するキリストの、「神の業がこの人に現れるためである」という答えを、私は長い間、素直に受け止めることができないでいました。キリストは、障害も恵みだと言っているのだろうか。私には、納得いかなかったのだと思います。今でも、このキリストの答えを自分の答えとして、大上段に振りかぶって言うことはできませんが、今は、「神の業は、お前の歩けない甥の、あるがままの姿のうちに現れている」と、キリストから呼びかけられているような気がします。 

そして、歩けるお前は、歩むべき道をちゃんと歩いているか、目の見えるお前は、見るべきものをしっかり見ているかと、キリストから問いかけられているように感じています。 

☆山本量太郎 

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