6月のメッセージ
教会報 第541号「優しさ」
福島 一基 (カトリック成城教会 主任司祭
聖地を巡礼で、エジプトからイスラエルへと出エジプトを辿り、またガリラヤからエルサレムへとイエス様の足跡を辿ったことがあります。エジプトからイスラエルまでの道程では、荒れ地ばかりで、自然の厳しさを目の当たりにしましたが、ガリラヤに足を運んだときには豊かな自然の優しさに触れることができました。荒れ野で40年間もさまよった旧約のイスラエルの民は、この自然の優しさに触れ、心から喜びを味わい、荒れ野の厳しさで学んだことを心に刻みつけたのではないでしょうか。先日、聖書のクラスで創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記のモーセ五書と言われる部分を、参加してくださる皆さんと読み切りましたが、ふとこの巡礼旅行のことを思い出しました。
旧約の教えは荒れ野で伝えられたことであるので厳しくあり、また新約の教えは自然豊かなところで伝えられたので優しく感じるのであると、どこかの神父様がおっしゃっていたことを思い出します。確かにそうかもしれません。自然が豊かな日本に住む私たちも優しさが好きですし、どちらかというと厳しさよりも優しさのほうを優先してしまいます。別に日本人ではなくともほとんどの人間はそうだと思います。キリストの教えが普遍的なものであると信じているわたしですが、きっと本物の優しさがそこにあるからこそ普遍的なものであると言えるのでしょうし、また自分の信じているものこそ優しいものであってもらいたいと思っているのかもしれません。
しかし、優しさに私たちは惑わされます。子どもの頃、優しい言葉を掛けてくるのは人さらいであると教えられました。今の時代も人の優しさにつけ込む「振り込め詐欺」みたいなものが横行する世の中です。優しくしたいのですが、傷つきたくない。傷つけたくないけど、優しくできないようなジレンマがわたしたちの中にはあります。人間はなぜ大好きな優しさを誤って使おうとしてしまうのか不思議です。
なぜか優しくされると、何をしてもいいかのように思ってしまいます。優しい先生の授業では、真面目に勉強しなかった思い出は誰にでもあるでしょう。優しくされるとつけあがってしまう傾向は聖書の中にも見られます。荒れ野で厳しさを体験したはずのイスラエルの民も、せっかく恵みとしていただいた約束の地ではさんざん神様に背いてしまいます。優しくされるときこそ、少し気を引き締めるべきなのかもしれません。
1年で一番優しい季節を迎えましたが、優しさに溺れることなく、気を引き締め過ごしたいものです。





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5月のメッセージ
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