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8月のメッセージ

月報 第543号

「安息日」

福島 一基 (カトリック成城教会 主任司祭)

去る6月11日、ペトロ岡田武夫大司教様は司祭年の終了に際して、「司祭の休養、霊的生活の刷新」というメッセージを出されました。司祭の休暇にご協力くださいとのことですが、信者の皆さんはどう思いますか。司祭であっても当然人間です。身体的にも、精神的にも限界のある存在です。普通に疲れを感じますし、無理をすれば病気にもなります。祈りの時間、また自分を振り返る時間をもたなければ、教会のため、また教会を訪れる人々のために働けなくなってしまうでしょう。カラ元気をまわし続けても、いつかそれも枯れてしまいます。信仰や根性でなんとかなればいいのですが、そうもいきません。でも疲れを自分の過ちの言い訳にしてしまってはいけないようにも思えます。


旧約聖書には安息日の規定があります。出エジプト記20章と申命記5章にありますが、安息日を守るのは、何よりもすべてを創造なされた神様を思い出す日としなければならないからです。また申命記では、神様がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放されたことも思い出す日でもあるようです。その他に自分以外の者、家族や奴隷、家畜の他すべてのいのちを休めることに向けられています。みんなで休み、みんなで神様を思い出すことが旧約聖書における安息日の意味なのです。


わたしたちカトリック教会の安息日は日曜日、すなわち主日です。この日は仕事を休んで神様を思い出さなければなりません。ちょっと前まで、日曜日に仕事をする場合、主任司祭の許可をいただかなければならなかったと聞いています。今現在そこまで厳しくはありませんが、やはり心と体の休息をとり、ミサにあずかることを教会は勧めています。もちろんそれはどんな時も神様がともにいてくださり、いつでも救いへ導いておられることを思い起こし、これからの1週間をまたキリスト者としてしっかりと生活するためであることは言うまでもないでしょう。


わたしが休めば誰かに迷惑がかかる。確かにそうかもしれません。でも裏を返せば、わたしに迷惑をかけないように誰も休むなと、心ならずも自己中心的な考えに陥ってしまっているのかもしれません。他人の迷惑をゆるしてはじめて愛の実践と言えるのでしょう。そして自らの迷惑を認めてはじめて回心できるのでしょう。迷惑はそれほど悪いものでもないかもしれません。ふさわしい休みを通してわたしたち一人ひとりがキリスト者としての自覚を深めていくことができますように。


月報8月号
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