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浅井太郎新司祭による初ミサ



2012年04月22日
10:00 アウグスチヌス 浅井 太郎神父

4月22日、3 月に司祭に叙階された浅井新司祭が成城教会で初ミサを捧げてくださいました。


浅井新司祭はまず、名古屋カテドラルでの叙階式に成城教会からも多くの信徒が参列したことに感謝を述べた後、前日、朝ミサを捧げた杉並の「イエスのカリタスの会」の管区本部でのエピソードから話を始められました。


あるシスターから「髪の毛が伸びましたね」と声をかけられ不思議に思ったが、やがて、1 年前被災地の釜石でボランティアをしていた時、一緒に働いていたシスターだと気付いた。シスターに「煮炊きに使うプロパンガスを持っていたのでガス屋さんと思った」と言われて思い出したのである。


このように、最初は分からなくても、ある特別な思い出を介して気づくことがある。今日の福音(ルカ24)のエピソードで、イエスであることが分からなかった弟子たちが、食事を共にして初めてイエスであることに気づいたのも「食事」というイエスと弟子たちにとって大切な思い出である行為を通して目が開かれたからである。前日の朝ミサの朗読箇所(ヨハネ6)は、イエスが湖を歩く場面である。おびえる弟子たちにイエスは「私だ、おそれてはならない」と言う。これは旧約聖書の出エジプト記の神の言葉、「私はありてある」に通ずる言葉である。つまり、「おそれてはならない」は「私だ」と言っているのであり、神の自己啓示を伝えている。私たちがご聖体をいただくのもこれを実現しているのであり、「アーメン」は「その通りです」という言葉で、キリスト者としての生き方、あり方を約束し、表明していることなので、とても大事である。


次に、聖堂で配られた司祭叙階記念カードの高山右近像の写真について説明されました。


右近像の写真の横に書かれた「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」(マタイ16・26)は、右近も伝えた言葉である。高校生の頃、西田幾多郎の「善の研究」に惹かれて哲学を志した。その中に「自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、私のために命を失うものは、それを得る」(マタイ16・25)という言葉があり、大変感銘を受けたのでその言葉をカードの裏に記載した。召命を受けて、いつ神の道を志したのかと考えると必ずこの言葉に突き当たる。神の力を借りなければこの言葉を生きるのはとても難しいが、自分の人生を今引っ張っているのはそういう思いであると思う。人はただ生きているだけでは本当に生きていることにはならない。神のため、人のために生きる時、そして精神的な価値にあずかって生きる時、初めて生きていると言えるのである。右近は「(神を)信じます」 という言葉を決して裏切らない誠実さで示した人である。この誠実さを私たちは学びたいと思う。


最後に「私たちの信仰が強められて生きられるよう神に祈りましょう」と結んで、説教を終えられました。


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